『俺たちの朝』(おれたちのあさ)は、日本テレビと東宝が制作した青春ものテレビドラマ。1976年10月17日から1977年11月13日まで、日本テレビ系列で日曜日20時から1時間枠で放送された。全48回。
刑事ドラマ『太陽にほえろ!』のテキサス刑事役を降板した勝野洋の次回作であり、初の主演作。そして、前番組であった中村雅俊主演『俺たちの旅』の人気を引き継ぎ、当初は1クールの予定だったが全48話一年間のロングランとなった。
修学院大学を中退した修治(オッス)とオッスの友人で在学中の勇夫(チュー)は、都内の下宿先を追い出され、偶然会ったオッスの幼友達で先輩でもある太作(ヌケ)を追って、居を求めてチューと2人でリヤカーを引き鎌倉まで行く。そして、そこで知り合った東京美術大学学生の麻子(カーコ)と3人で奇妙な共同生活を始めることになる。オッスは大の海好きで、ス...
『青春ド真中!』(せいしゅんどまんなか)は、ユニオン映画の制作で、1978年に日本テレビ系で放送された学園ドラマである。期間限定で修学院高校に赴任してきた産休補助教師、“バクダン”こと中原俊介(中村雅俊)を中心に物語が描かれる。
ジャンル 学園ドラマ
放送時間 日曜20:00 - 20:54(54分)
放送期間 1978年5月7日 - 同年9月24日(13回)
放送国 日本の旗 日本
制作局 日本テレビ[1]、ユニオン映画
企画 岡田晋吉(日本テレビ)
監督 斎藤光正、土屋統吾郎、佐藤重直
脚本 鎌田敏夫、畑嶺明
プロデューサー 中村良男(日本テレビ)、奈良邦彦(文学座)、山本剛正(ユニオン映画)
出演者 中村雅俊
エンディング 『青春試考』(中村雅俊)
特記事項:
第12話は本放送当時放送されず。
前番組として放映されていたドラマ『俺たちの祭』が視...
1975年10月5日から1976年10月10日まで毎週日曜日20:00 - 20:54に放送された。当初予定されていた放映期間は2クール(半年)だったが、高視聴率を獲得し続けたことから結果的に4クール(1年)に放映期間が延長された。カラー、フィルム作品。
物語は三流私学修学院大学の学生カースケ、その同級生オメダと、同郷の先輩で早大OBグズ六が中心に織りなす友情と青春群像を活写し、生きることの意味、悩み、喜びなどについて問いかける。
放映後、単発のスペシャル特番が3作放映された。
カースケはバスケットボール部のキャプテンでエースであったが、就職活動はほとんどせず、アルバイト中心でその日が楽しければよいというタイプであり、彼に好意を抱く部のマネージャー洋子の心配をよそに気楽な毎日を過ごしていた。
一方、親友のオメダは父親不在の生い立ちと彼自身の生真面...
英文学者沼波敬吉は、昭和十三年大連で妻須賀子と結ばれた。須賀子は貞淑な妻だった。敬吉は倖せに酔い、須賀子を相手に文学論をぶち、芸術を語った。敬吉にはそれが得意でもあったのだ。だが、須賀子はそんな話には無頓着であった。それを知ってからの敬吉は、自分の学問への理解と励ましを妻に求めるのをやめた。そして、醒めたもう一つの眼で妻を見るようになった。結婚して五年程たったある日、友人の小説家田所が大連の敬吉を訪れたとき、須賀子が田所を誘惑しようとしたのを見て、敬吉は妻の肉体の深い淵にもう一人の女の影が生きていることを知った。終戦の混乱で、大連の日本人の生活は苦しかった。須賀子も社宅で小料理屋を始めた。客の中には須賀子めあてに来る人も多かった。的場、瀬川もそんな客であった。潔癖な敬吉は以来、須賀子を抱くことを拒絶した。昭和二十二年金沢に帰国した二人は、須賀子が小料...
磯田敏夫の原作「企業防衛」を、「人間蒸発」の今村昌平と新人の磯見忠彦が共同で脚色した風俗喜劇で、磯見忠彦の監督第一回作品。撮影は「波止場の鷹」の姫田真佐久。
東京の古本屋を廃業して大阪のキャバレー、オアシスの支配人となった利徳は、巧みな宣伝と戦術で成功していた。彼には女房カツ子の待つ家庭よりも、この道の方が魅力的だった。その利徳にとって、競争相手のニューポールが新装開店するという情報は聞き捨てならないことだった。早速第二オアシスを開店させて対抗しなければならないと、社長の片岡を説得した。しかし、場所が悪く「文教地区にキャバレー進出」と新聞が書きたて、地元民の反対は強かった。そんな間に、ホステスたちの教育、ヌードダンサーが逮捕された後始末と、利徳は忙しかった。利徳が双子のホステスの姉のフミ子と深い仲になり、妹の方のフキ子と三人でアパート住いするようにな...
1972年の沖縄返還時、協定を巡る日米の密約電文が漏洩し、毎日新聞西山 太吉記者と外務省女性事務官が国家公務員法違反で逮捕、有罪となった事件。
沖縄返還で日本に返される土地の原状回復補償費は対米請求権の中に入ってい て、日本側が支出する法的根拠はなかった。当時、米国はベトナム戦争で財源が 乏しく、これを米側が支出することに対して、米国議会は強硬に反対していた。
ジレンマに陥った日本**は、対外的には米側が400万ドルを負担したこと にして、裏で日本側が肩代わりする「密約」を米**と結んだ。
外務省を担当していた西山記者は、外務省審議官の秘書だった女性事務官に近 づき、この密約の機密電文を持ち出させた。機密電文には「appearance(ふりを すること)」との記載があり、はっきりと国民をだますことが明記されていた。
機密文書は、1971年5月に愛知外...